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ビジネスロイヤーのひとりごと

砂の器とショーンK

砂の器天国への階段、恵まれない出自を隠して、才覚で生き抜く物語の主人公は多くの人の共感を得てきた。
浄瑠璃も歌舞伎も、お上の法を犯し、運命に翻弄される人々を描いてきた。

お上の規範と世間の情理は異なり得る。その歪み、その切なさ、その苦しみが物語であり、そこを叡智で解決する大岡越前はヒーローだった。

今はちがう。いや、本質的にはあまり変わっていないかもだけれど、表層的には、規範に合致しない情理を語ることは許されなくなっている。少なくともテキストとして。すべて検索可能なテキストは、検閲と断罪の対象になるから。現代なら、北町奉行所のツイッターは炎上してしまう。

何が正しいかは、完全に別として、顔を変え、過去を棄ててまで戦ってきたその上昇思考を私は単に嘲笑するような気持ちにはなれない。それくらいの気概なしには格差は乗り越えられないのだから。

滅びなば、滅んでしまえ

仕事だから、毎日何かを「改善」するとか、「再生」させるとか、基本的には、世界を「より良く」するために労働している。

けれども、本当のところ、もういいんじゃないかと思うことの方が多い。国破れて山河あり。限界集落が朽ちてもそこに花は咲くだろう。人々が去っても温泉は湧き、山は色付く。

そうしたものに、抱かれながら、自分も美しい暮らしと一緒に、朽ちても幸せではないだろうか。子供や孫に先祖からの土地を継がせたいのもわかるけれど、もう好きに生きてもらって構わないと腹をくくっている人々もそれなりにいると思う。

消えてしまうのが寂しい文化は沢山あるけれど、変にマネタイズして、生き残るために無理に変容させてしまうより、美しいまま滅びてしまうことが「悪」だとは誰も言えない。

消えてしまう最後のその日までは、奇をてらわず、昔からと変わらぬ姿で、集落の行事や伝統が続いてくれたらそれでも。。

***

世の中には意識の高い人たちが沢山いるので、自分自身や、所属する組織や社会を「より良く」する方法論が山のように溢れていて、その何割かには考案者の名前をもじった理論の名前までついている。大概は賢い人が少し考えればたどり着く結論に多少あほでもたどり着けるように、物事の考え方を整理したようなもので、ある程度以上の知性の人たちがああしたアカデミックではない「気付き」なんかのために貴重な時間や労力を割くのは勿体ないと思う。

そうしたメソッド(というか単なるtips)を語るだけで他の人たちを未開人のように思うことも、傲慢で知性的ではない。

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「より良く」する工夫は、比較的少しの努力で達成できるし、できたら楽しいし、自慢したくもなる。けれど、何が「良い方向」か、一義的に決められると思うのは傲慢だ。

バブル期、酸ヶ湯温泉の人々の中には、濁り湯で硫黄の臭いが強いものは、観光客に受け入れられないであるとか、ひばの浴槽は不潔に思う人がいるとかで、浴室施設の改装を主張する人々がいたらしい。

同じようなことを、改善や再生の名の下に犯してやないか、間違ったものを無駄に延命させて、本来生き残るものを淘汰したりしてないか、いつも心配だ。

滅ぶなら滅んでしまって構わない、と思う方が謙虚なのか、いや、己の信じるものを守ることが美しいのか、村を沈めたダム湖の畔で戦った人たちのことを聞きながら、心は揺らぐ。

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マイナス金利で物価が上がるのか

政策金利の引き下げを決定した委員たちはスーパーマーケットで買い物をしているだろうか。

物価指数とひとくちにいうけれど、指数を押し下げているのはテレビやパソコン、カメラなどのデジタル機器、携帯電話料金など。その他衣料品なども貢献している。

問題は生鮮食品等の生活必需品で、実はこれは結構上がっているのが生活実感で、スーパーマーケットのトレイやら包装類、運送コストがだだ下がりのはずなのに、全然転嫁されている感じがない。むしろ円安のせいで小麦やら飼料価格があがっているから、じわりじわり高くなっている。これからもなおさらそうだろう。それをマイナス金利の効果だ、というのはひどい話で単なる副産物に過ぎない。賃金上昇が伴わなければますます消費は冷え込んでしまうだろう。なんせ増税も控えてるし。

一方で日本は他の消費財に比べて食べ物が安すぎる。それは、構造的に食べ物を無理矢理安く供給するブラックな仕組みがデフレ期間を通じて固定化してしまったためだ。農業従事者(特に近年問題となっている海外研修生による近郊栽培)、コンビニやファーストフード、居酒屋の店員、食品加工等、最低賃金労働者が日本の食を支えている。食べ物の利益率は確かに低いものだけれど、ちょっと鈍感になりすぎてやないか。。
近年の気候変動、漁業不振、その他の環境要因で実は食べ物の製造コストは実態的にかなり上がっているのに、それをうまく転嫁する仕組みはできていない。

タクシーは原油安になっても値段は下がらないというのに。。

とりあえず景気浮揚を日銀の力技にまかせるのは誤りで、実体経済を細やかに分析して、まっとうなインフレターゲットを再設定すべきだし、あとはとりあえず端的に最低賃金を上げ、かつ飲食店や農業等、労働法制の不遵守が常態化している業界にメスをいれるべきだと思う。ささやかなことに見えるだろうけれど、適用人口は多い。どうも経済政策というと法制を切り離してしまうけれど、法の施行は常に経済効果を伴うものなのだ。

おいしいもののまわり 失われるもの

土井先生のエッセイでもうひとつびっくりした下りがある。

それは、胡麻も海苔も鰹節も、美味しくて、日本人の食卓にあまりにも欠かせないものであったが故に、煎り胡麻や焼き海苔や削り節が普及しすぎて、日本の家庭から胡麻を煎る香りや、炙りたてのお海苔や、削りたての鰹節が消えてしまい、結果として一番大切な文化が消えてしまったという下りだ。

必要だからこそ、消してしまう。自分たちでも気が付かない間に。少し楽をしようとしただけで。便利な世の中で、文化というのは、意識して残さなければ残らないのだ。

同じようなことは食べ物以外にも沢山生じている気がする。。

おいしいもののまわり 土井先生の美意識


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土井先生のエッセイ。
和食のおいしさは雑味がないこと、即ち清潔で、仕事が丁寧なこと、ということが突き詰められている。

1対1対4と2対2対8のつゆの味は違う。なぜなら過熱する際に蒸発する水分量が違うから。

焼き海苔を表あわせで炙るのは、裏面はつるりとした表側より表面積が多いから、熱が均一に伝わるため。

化学、歴史、民俗学、地理、気象学、植物学、あらゆる知性をおいしい料理を作ることに総動員する姿勢、美意識。好きなことを誇りを以てするということはこういうことなのだと思う。

箸が使えるようになるまで、皿がきちんと洗えるようになるまで、すべてに方法論を構築する。

仕事だからできることだと思う。仕事とはそういうものだ。仕事が好きなら自然とそうなる。楽しくて仕方がないのだ。

「お料理をする」と、先生が敢えて口にするやわらかな女言葉の裏に、ここまでの丹念なプロ意識があることに改めて感動した今日の読書。

SMAPのおそろしさ

家にかえって真っ先に会見動画を見た。
恐ろしかった。

週刊誌の憶測記事を笑い飛ばせるようなものを、僅かながらも期待していたけれど、実際は憶測通りであることが、少ない言葉の端々から匂いたつ会見だった。

3.11後の東電の会見を思わせる空気の重さ。それ以上に、「世間」や「ファン」にではなく、「ジャニーズ」に向けての謝罪をしている姿が、公共の電波に写し出されるおそろしさ。

本来なら、スポンサー相手の謝罪なら事務所の社長や副社長がすべきで、メンバーはファンに向けたメッセージを発すればよいと思うのだけど、、。

押しも押されぬ憧れのスター、かつ25年も姿を見てきた近所の知り合いのような距離感のアイドルが、実は女衒同然の扱いで人権を奪われ、結婚もできず、苦しんでいるその生の姿を見せられてしまって、正直動揺している。

でも、そもそもが、15の子供を45になるまで使い倒して、SMAP以外の何者にもなれなくなるほどのアイデンティティーのスティグマを与えてしまっていることが、ほとんど呪いなのだ。

慎吾くんは精一杯の明るさをかろうじて添えたけれど、窶れて蒼白な中居くん、能面のような草薙くん、最後に口を歪めて話す木村くんの姿にはどんな意味があったのだろう。「木村くんが謝る機会を作ってくれて」って、この先あの四人は木村くんと仲良くできるのだろうか。

むしろ、大人の事情でそれぞれ袂をわかったとしても、今までの絆があるから、いつかきっと何とかなると思わせてもらえた方がずっと健全だった。

SMAPは形式的に解散しないかもだけれど、私達の心の中の、近所の素敵なおにいちゃん的長閑なSMAPは、解散してしまったのだとおもう。

テレビに出演しても画面に移らないベッキー、その他の沢山の消えていった人達。。唯一無二の輝きかと思われた才能も、サラリーマン以下の契約奴隷だということに、「彼らもそうなのか」と慰みに思う人もいるかもだけれど、本当は希望を見たかった。

人間は、「大人のえらい人達」に背いても殺されることはない、むしろたとえ端からは名声を失ったように見えても、引き換えに幸福を得ている人達はいるはずだ。同じSMAPの森くんもそうだし、他の人だって。。あの人は今、ではそういう編集はあまりされていないけれど、どうかいて欲しいと思う。。

愛を知る

若い男の子達がお正月に遊びに来て、話をしていて思ったこと。

女性の表面的な美しさのみにとらわれることも、分かりやすいゲームを楽しむことも、美しい人こそが、運命の人だと思うことも自由だと思う。

しかし、私はこんな生活をしているけれど、魂の伴侶がいることは本当に素晴らしいことです。彼の人に恥じぬようにと思えばこその人生です。

けれども、愛情は相互作用だから、少年漫画のように天から恋人は降ってこない。美術のデッサンや、楽器の演奏のように、意識して愛する力を育まなければ愛することも愛されることもできない。
楽器を演奏する人ならば、他の演者の音と自分の出す音を聴きながら演奏することの難しさが分かると思います。
筋肉と同じように心の感応度の弾性も使わなければ、年齢を問わず衰えてしまうものです。

音楽も文学も人の魂の結露であるからにして、こうしたレッスンには最適なれど、やはり生身の異性には叶いません。

結婚という制度もレッスンに無理矢理にも取り組まされるという点で、大きな成長機会だけれど、レッスンというより本番でもあるので、なかなかに大変です。

異性に人格を認めるという当たり前のことも、実は意識しなければできないことで、女性は男性にとって、男性は女性にとって、当初は客体でしかありません。よくおとぎ話で野獣や老婆の呪いがとけて、美男美女に変わるお話があるけれど、あれは本当は相手に人格を認めたことの分かりやすい比喩なのです。もしかしたら、肉体自体は醜いままかもしれないけれど、人格を認めて世界で一人だけの存在になった人は、世界一の美男美女に匹敵するのです。

とはいえ、そんな風にはなかなか思えないだろうけれど、どうか女性をなんとなくデートに誘う前に、遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」を読むことをおすすめします。