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ビジネスロイヤーのひとりごと

滅びなば、滅んでしまえ

仕事だから、毎日何かを「改善」するとか、「再生」させるとか、基本的には、世界を「より良く」するために労働している。

けれども、本当のところ、もういいんじゃないかと思うことの方が多い。国破れて山河あり。限界集落が朽ちてもそこに花は咲くだろう。人々が去っても温泉は湧き、山は色付く。

そうしたものに、抱かれながら、自分も美しい暮らしと一緒に、朽ちても幸せではないだろうか。子供や孫に先祖からの土地を継がせたいのもわかるけれど、もう好きに生きてもらって構わないと腹をくくっている人々もそれなりにいると思う。

消えてしまうのが寂しい文化は沢山あるけれど、変にマネタイズして、生き残るために無理に変容させてしまうより、美しいまま滅びてしまうことが「悪」だとは誰も言えない。

消えてしまう最後のその日までは、奇をてらわず、昔からと変わらぬ姿で、集落の行事や伝統が続いてくれたらそれでも。。

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世の中には意識の高い人たちが沢山いるので、自分自身や、所属する組織や社会を「より良く」する方法論が山のように溢れていて、その何割かには考案者の名前をもじった理論の名前までついている。大概は賢い人が少し考えればたどり着く結論に多少あほでもたどり着けるように、物事の考え方を整理したようなもので、ある程度以上の知性の人たちがああしたアカデミックではない「気付き」なんかのために貴重な時間や労力を割くのは勿体ないと思う。

そうしたメソッド(というか単なるtips)を語るだけで他の人たちを未開人のように思うことも、傲慢で知性的ではない。

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「より良く」する工夫は、比較的少しの努力で達成できるし、できたら楽しいし、自慢したくもなる。けれど、何が「良い方向」か、一義的に決められると思うのは傲慢だ。

バブル期、酸ヶ湯温泉の人々の中には、濁り湯で硫黄の臭いが強いものは、観光客に受け入れられないであるとか、ひばの浴槽は不潔に思う人がいるとかで、浴室施設の改装を主張する人々がいたらしい。

同じようなことを、改善や再生の名の下に犯してやないか、間違ったものを無駄に延命させて、本来生き残るものを淘汰したりしてないか、いつも心配だ。

滅ぶなら滅んでしまって構わない、と思う方が謙虚なのか、いや、己の信じるものを守ることが美しいのか、村を沈めたダム湖の畔で戦った人たちのことを聞きながら、心は揺らぐ。

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