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ビジネスロイヤーのひとりごと

孤独のグルメとTeriyakiと。

孤独のグルメ、気が付いたらシーズン5です。

登場したお店は、すっかり予約が取れなくなってしまいました。私が好きだったお店も出たことがあるけれど、地元の小さな印刷工場のお兄さんたちがキャバクラ通いの前にめしと酒をくらうお店に、急に食べログに「小生」とか書いちゃうようなおじさんや、お金に余裕のありそうなマダム数人連れが行列したりなんかして、本当にがっかりでした。お店のおやじさんはまもなく亡くなったけど、最後が幸せな営業だったか、少し心配です。テレビに出れて良かったなぁと思ってくれていたらよいけれど。

主人公の五郎さんは、一人で、入ったことのないお店に入り、つまり完全に「アウェー」な状態でお店と対峙します。暖簾をくぐるときにドキドキし、メニューを眺めるのに観察力を総動員します。孤独のグルメの後追いさんたちがあらゆる情報をがっつり抱え込んで、食べに行くのとは対象的です。

五郎さんが観察するのは、食べ物の作り方や素材だけではありません。おやじさんと常連さんのやりとり、オーナー夫婦の仲、バイトのお姉さんのほがらかさ、無愛想な親父の繊細な気配り、町そのものの空気。。食べログにもそういったものは書いてあるかもしれないけど、そういうのって「評価」なんてするものでなくて、ただそこに自然に存在するものなのです。山や川を「評価」しないのと同じです。まして攻略するものでもない、ただそこに身を浸して味わうものだと思うのです。

そう、そもそも味わうという行為の本質がそのまま楽しむことだと思います。お仕事でテイスティングする人はいると思うけど、楽しんではやっていないと思います。田崎さんだってプライベートでは気さくに気楽に楽しく飲んでると思います。

とはいえ、美味しいものとそうではないものってあるでしょ、どうせなら美味しいもの食べたいと思うのは普通のことじゃないかという意見があります。

堀江貴文氏のTeriyaki、評判ですね。僕の知ってる人がおいしいというものは基本的においしいし、変なお客さんが来ないように双方向レーティングも入れるから、大丈夫だよとあっさりおっしゃってます。1万5000円以上払ってガッカリするのって本当に嫌だから、Teriyakiを便利使いできる人は結構いると思います。はじめて訪れる土地で仕事して、さくっと一定レベル以上の店を予約する。基本的に月額400円払うのを気にせず、流行りものに敏感な人だから、利用者もラーヲタみたいな人より上品ではあるでしょう。接待需要が縮小しているので、そういったお客さんをのぞむお店にもよいのかもしれない。

けれど、それが「本当においしいもの」だと開き直ってしまうのは、違う気がします。おいしさとは、お皿の上のたんぱく質やら脂質やら塩分やら糖分やらの塊、ではないから。名店の焼鳥やの焼き加減を完全再現してマシーンで焼いても多分きっと何かが違うってみんな言うでしょう。それは、人間が「情報」を味の一部として取り込んでるからです。

食べログ4点以上とか、Teriyaki掲載店だとか、孤独のグルメに出てたというのは、最高の情報調味料になります。

でも、もっともっと美味しい「情報」があります。ひとつは、「自分が見出だした」という喜び、井ノ頭五郎ソース。もうひとつ、誰もがよく知っているやつ、愛です。料理は愛情。

料理は愛情というと、愛を込めて丁寧に作れば大体おいしいよ(多少まずくても気にすることないよ)という文脈で使われるけど、食べる人の舌の上に愛情が乗っかっていれば、美味しく感じられるというというのもあるはずです。

私は、だから「好きな人」のごはんを食べるようにしています。彼氏の手料理ではなくても、尊敬したり、好感を持ったり、会えると嬉しいお店の人が作ってくれるものを食べて、そこに訪れる人達と時間を共有して、笑って食べる。

堀江さんやその他のTeriyakiのキュレーターも多分同じだと思います。信頼できる料理人を見る目があると自負してるはず。

けど、欠落しているのは、「関係性」であり「物語」です。美人が最高の恋人になると信じている男性は一定数いるけれど、愛情やら愛着は関係性から生まれるのだから。星の王子さまで、キツネが話す、あのくだりです。

livedoor事件が起きたあの頃、エキサイトの山村社長のブログだったり、東京カレンダーを眺めては、色々なお店に行っていました。そんなある日、池波正太郎を読んでいて、ふと自分は何か間違っているのではないかと思ったのです。自分は自分の食文化を形成しているとはいえないのではないか、「私の食」といえる有機的な何かを育てるためにやるべきことがあるのではないかと。

それからの10年、食べることを愛してきました。自信をもって、自分はTeriyakiのキュレーターと同じかそれ以上に幸福な食生活を楽しめていると思います。

サラメシしかり、世界入りにくい居酒屋しかり、食べることは生きていくための関係性を築くこと、というメッセージが発せられています。あなたの町にも、あなたを待つ、あなたのための店があるはずです。

孤独のグルメの冒頭のモノローグでは、一人で物を食べることがいかに自由な行為かが語られます。洋服、車、家はそこまで自由には選べない。銀行員はTシャツで会社に行けないけれど、社長が汚い中華料理屋の餃子にかぶりつくことは自由です。その唯一無二の自由、自分の文化の構築を、権威付というジャンクな情報に振り回されて、他人のアンテナに委ねてしまうなんて、少なくとも私は絶対にいやです。

何がおいしいか、ということを考えてきたここしばらくで、これが今のところの思いです。来年は、Teriyaki使ったりしてるかもですけどね。