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ビジネスロイヤーのひとりごと

文学とテロリズム 壁と卵からの歳月

/文学は多くの場合、現実的な役には立たなかった。たとえばそれは戦争や虐殺や詐欺や偏見を、目に見えた形では、押し止めることはできなかった。そういう意味では文学は無力であるともいえる。歴史的な即効性はほとんどない。でも少なくとも文学は、戦争や虐殺や詐欺や偏見を生み出しはしなかった。逆にそれらに対抗する何かを生み出そうと、文学は飽くこともなく営々と努力を積み重ねてきたのだ。/
村上春樹「自己とは何か (雑文集)」

昨日このエッセイを読んで、懐かしさに胸を打たれた。30年前に父に書斎の本棚の前で言われた言葉とほとんど同じだったからだ。

私は、人々が勤勉に何かの価値を生み出している(ようにみえる)のに、文学者(しかも小説家でもなく研究者)は、社会にフリーライドしているのではないかと父に訊ねたのだ。

ずっと疑問に思っていて、怖くて、聞けなかったことだった。血の気の多い人だったし、子供が大人の領域に踏み込むことは厳格に禁じられていたからだ。

家には子供用の玩具も書籍もレコードもなく、ただ大人の世界の居候として、知識を蓄えて待つほかなかった。

だから、その質問は事実上、最初に父に一人の人間として投げ、応えてもらった問いだったのだ。

確かに平時においてはフリーライドの側面はあるかもしれないけれど、人々が日々の営みを、誰にも脅かされることなく、自由な世界で続けることができるよう、文学者は常に戦いを続けるものなのだ。その戦いはまるで地中で行われているかのように人々には見えないけれど、密かに、確実に、世界を救済しているのだ、と。

上記のエッセイの中で、村上春樹は、小説家を森の中で黒魔術と戦う白魔術士に例えている。それも父の言葉に近い。

彼が私に残した言葉の中で自由への闘争が最も重要な趣旨であったように、上記のエッセイは村上春樹雑文集の巻頭に入っている。

実際父による世界の救済が、どのように身を結んでいるのかを私が知るのは、父の死後25年という歳月を要したのだけど、私もその戦いをはじめるために、支度をはじめたい。

村上春樹の壁と卵のスピーチが、世の絶賛を浴びてから6年超しか経っていないのに、イスラム社会に向けられる世界の眼差しは、どうしてこんな風になってしまったのだろう。世界中が結託して、テロリズムイスラム国から、卵を守らなくてはならないのに、シリアの政権争いという壁を通してしか、政治は動かないのか。それに対していかに自分が無力か、心がしめつけられる。