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ビジネスロイヤーのひとりごと

偏らないためにできること

ネットで手に入れられる情報の質が下がってきている。

ブログ全盛期にはフォローしたいブログがいくつかあったのだけど、SNSの攻勢により、ブロガーの量が減り、自分が共感できる記事を探すことが難しくなった。

加えてガムのような中身のない記事をつい読んでしまい、さらに似たような記事が提案されるようになったり、ついつい読んでしまうまとめブログの不正確さに洗脳されたり。結局暇潰しに眺めるタイムラインやまとめに流されて思考が単純化することを回避するには意識的な努力が必要だと痛感している。

バランスのよいデータベースや信頼性が高い両論併記のメディアは見つからないので、自分で両論を検索して、双方が根拠としているデータや引用や統計を眺め、双方が自己の主張のために何を意図的にあるいは無意識的に重視したり、無視したりしているかを想像する。

特に疫学的因果関係の主張は、取り出す因子によりいかようにも左右できるにもかかわらず、有意差があれば、サンプルの数の多寡にかかわらず、あたかも直接的因果関係があるかのごとく振る舞うものが多い。たとえば、

A5ランクの肉を15歳までに食べたことがある人間の進学率はそうでない子供の3倍である。

という主張に対しては、大体の人がおかしいことに気が付けるが、

75歳以上の癌発症者の5%は医療被爆がその原因である

というのをみて即座にダウトといえる人は少し減るだろう。そもそも医療被爆との因果性の立証など困難で、調べたら閾値以上の治療をしていた人が5%いただけで、彼らに他の要因がないかどうかは完全に調べることはできない。もっと若い年齢ならともかく、無意味とは言わないがこれだけで何かの根拠に使えるデータではないだろう。

実際は、これほど分かりやすい議論はなく、双方の主張にそれなりの理があるように見える。したがって、その間に真実があるだろうと踏むのがおおよそは妥当で、そこから少しずつ時間をかけて柔軟に自分の意見を構築していくしかない。
その結果が正しいところに行き着くわけでもないのだけれど。。

事実を知ることも困難だが、専門外の判断について、真実と思う答えを見つけることは難しい。懐疑的な態度をすべてにおいてとることも、逆にいずれかの考えを信じることも、同じようなものだ。

ただ、自分は少しでも知性的でありたいという欲求だけで、じたばたしている。それは、正しいとか人間はかくあるべしという理屈とは違って、死ぬまで化粧をする女優の美意識のようなものに近いかもしれない。

同時代人の言説に疲れると、たまに古い書物を読む。違う時代に生きた人の言葉はそれぞれの偏りがあるにせよ、今の時代のそれではない分、瑞々しく、頭のこりをほぐしてくれるような気がする。