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ビジネスロイヤーのひとりごと

意識高い系と教養主義

さみしいことは、教養主義から意識高い系への知的ファッションの移行である。かつて「実存主義とはなにか」が300万部を記録した日本。その頃から人々の知的レベルが下がったかというとそんなことは大してないはず。かつてサルトルを読んでいたであろう人々は、7つの習慣とかピケティとかドラッカーを読んで、Facebookで意識高い記事をシェアして本人も多分結構頑張っている。

この埃臭い、教養という言葉と意識高いイズムの違いは、お金を稼ぐこと、その他の効用を目的とするか、にある。より良く生きるというのもその目的のひとつだけれど、「意識高い」(本当に便利な言葉だな)人々の方法論と異なり、もっともっさりと、より良く生きるとは何か、あるいは生きているとはなにかということと向き合うのが、学問であった。

民俗学や歴史や美術や経済や文芸やら法律やら、現代のさまざまの風俗やら数学やら物理やら、ざらっーとテーブルの上に並べてつまみながらおしゃべりができる幸せ、話しているうちに新しい地平が沢山見えてきて、いながらにして世界や宇宙を旅しているような気分になれる喜び、教養がもたらす豊かさは、意識高い本から訪れる自意識に偏った胸の高鳴りより、人生を幸福にしてくれると思っているのだけれど。

下らないことで楽しく笑って一緒においしいごはんを食べることができる友達がいることは幸せだけれど、前頭葉をごりごり擦り合わせ、情緒をともにできることの楽しさはもっともっと素晴らしい。その幸福のために、ひとりでも多くの人と交歓するために、教養というツールを磨くのだと思う。

そういった意味では、野球からサッカー、テニスからゴルフに趣味を変えるように、競技人口が多い方のツールを育んだ方が、多くの人と交われるのかもしれないけれど。

でも、フットサルより山登りの豊かさに心奪われてしまったようなもので、古くさい本から、離れることはなかなかできない気がする。