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ビジネスロイヤーのひとりごと

コサインの要らない女の子はいる。そういう男の子もいる。

議員の話題が出ているけれど、折角の問題提起なのに、女性差別問題に帰着して、発言撤回とは残念だ。ひとこと、女の子は失言だったけれど、女性でも男性でも、コサインを勉強する必要がない人はいると思う、と言い切って欲しかった。

読み書きそろばんに加えて、どこまでの教育をどこまでの範囲に義務教育として国は与えていくかを考えるには、①一人一人が社会の中で大人として生き抜いていける力を与えたといえるに十分なボトムが用意されているか、②国家繁栄のために必要な人材育成の土壌があるか、両方の要素が必要。

コサイン(またはそれに匹敵するあまり現実的に十分に生徒に消化されていない項目)を学ばずに、溶接やプログラミングや農業やデザインや介護や児童心理の勉強をもっと早くはじめられる環境が用意されたとして、誰が不幸になるだろう。

勉強したい人間には学力に応じて低い学費で学べる機会が開かれていればよい。

格差格差というけれど、もう高学歴だから生きていけるほど甘い世の中ではないのだもの、その先も常に機会の平等さえ確保されていれば、そこそこうまく回っていくような気がするのだ。

大学出とそうでない人々の間に越えがたい教養の差があった時代は確かにあったし、そういった中では大学に行けるということの素晴らしさははかり知れないものだったと思う。

けれど、これだけテレビやネットで情報アクセスの平等が実現されていて、社会人になっても学びの機会は沢山あるのに、18から22の若者たちの大半のパワーを彼らにとってさして魅力的でもないカリキュラムの消化のために使わせる意味が未だに残っているとはちょっと思えないのだ。