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ビジネスロイヤーのひとりごと

農業の近代化とは何か

施設見学をしてきたので忘れないうちのメモ書き。特定性を排除するために少し内容は抽象化している。あと専門外なので色々不正確な記述もあるのはご容赦。

集約化が進んでいる米栽培と異なり、授精、摘果、収穫等の人手が省略できない青果や果実栽培。ざっくり一反にひとりほどの雇用が必要(それでもひとり40万個くらいの手入をする)。かつ、これは通年雇用でないと人手の確保ができない。

収量からの売上高はやはり10アール(ほぼ一反)から500万くらい。単価の高い果物だと、もう少し上がる。

これにハウスやら土壌改善の設備、燃料費などのランニングコスト、仕入原価であるところの苗代。設備だけで平米15000円から下手すれば50000円。つまり一反数千万円の投資がいる。水の調達も必要。

加えて受益者負担の選果場に数十億、半額は助成金が出ても、かなりの金額を長期ローンで払うことになる。高級車を一台購入するイメージだが、車は売れるが設備は15年後には入れ替えが必要になる代物だ。

太陽光をカロリーという名のエネルギーに変えるのは、太陽光発電事業に似ているけれど、太陽光発電は、人件費もほぼなく、土壌の手入れも不用で、連作障害も病害虫とも無縁、しかも全量固定価格買取、設備費用は施設栽培とさほど変わらない。

これで利回りざっくり8%と考えると、農業では絶対食べられない。自分の労働、明け方前におき、腰痛に耐えて重労働をし、旅行もせず、24時間、細かな天候変化に気を配り、飲んでいる途中でもハウスの気温を上げに帰る、そんな全てを無償でカウントしてやっと赤字にならない、そんな世界。。

農業の近代化は、こうした農業のスマートグリッド化であったり、収量増加(溶液栽培等)に資するものだ。

しかし、これで仮に収量が一反500万円から700万円になったと仮にしても、設備投資を考えると損益分岐を越えるのは難しい。

なぜなら、現代普及している技術では摘花等の作業を代替できず、よしんば一部代替できても通年雇用要請を考慮すると意味がないのだ。とにかく数年内にもAIロボットの農業利用の筋道を付けなければ、農地を拡大しても農業の集約化は限界のように感じた。。

近代農業は個人経営では難しい。農業法人化により、農業現場の雇用の近代化、人的資源配分の流動化、農業データ蓄積を行わなければならないことは否定できないと思う。

安保法案以上に、農業人口減少後の食料安全保障を考える必要がある。今世紀のうちに人類が水と食べ物をめぐって戦争をすることは避けられないだろうから。。

他方で、今の工芸品のような生育技術を承継し、美味しい野菜で貿易自由化を乗り切る必要がある。土地と人のコストからして、価格競争力で世界市場で競争することは無理なので。

この二つのニーズを「農業改革」として実践していくことはめちゃくちゃに困難である。

しかし、国家経済の維持と自由貿易競争というのは、古典的な経済ジレンマでもある。農業が絡むことで異なるのは、アクセルとブレーキをふみかえるのがより難しくなるということだけだ。

税負担は本当に避けられないけれど、税収の何分の一かを軍事費でなく食料安保に徴収するとすれば、納得する人も多いのではないか。

とにかく、今、職人工芸品のような手間をかけたしみじみ美味しい野菜を安い値段で食べていることには感謝しないといけない。

人のことを反知性主義だという人は反知性主義だという人は反知性主義者か?への答え。

人のことを反知性主義的だといって嘲笑する人は少なくとも賢くはないし、傲慢だし、自己反省は足りない。

なぜなら、他者の意見に対して常に真摯に検討し、自分の思考、思想については謙虚に懐疑的であれ、常に他の考えを斟酌して自己更新するのが、「知性的態度」でしょ、というのが反知性主義への批判として掲げられているお題目なので。

どんなに「こいつバカじゃねぇの!」と思ったとしても、決して頭からバカ!と言ってはいけないのだ。バカ!を反知性的!と置き換えたところで文脈はひとつも変わらない。誰が「私はあなたを反知性的と冷静に批判するのみであって、愚かだとかグズだとかは言っていない」と言われて納得するだろうか。

という比較的シンプルなはなしなのだけど、実は結構見かけるのです、反知性主義だ批判。

世の中、罵りあいは大いに結構なので、別にそれでもよいのですけれども。バカっていうおまえがバカ!っていう小学生や、きさんいうなちゃきさん!という北九州人は、自分が相手と同程度に低レベルな発言をしてることをどこかで分かってじゃれているのに対して、反知性主義め!という人は、自分が高みにあって高尚だと思っており、そこが可愛いげがないのです。

いっそのこと、なんだこのバカヤローっていう方が罵りあいとしては、感じが良いと思うのです。反知性的かもしれませんが。

ということで、人のことを反知性主義だと罵る人のことを、私は反知性的ではなくバカ!と心のなかで罵ることにしています。無論、そのとき私も愛すべき彼らと同程度に愚かで可愛いげがない状態だと思うのです。

ロゴなき世界 & Tokyo

シンプルなロゴ、分かりやすいシンボル、デザインされたフォントに紐づけられた商品イメージたち。

私たちの生活からこれらのシンプルなロゴ達が消えてしまったら、あるいはごてごてとした絵や、味気のないフォントばかりになってしまったら、スーパーマーケットでの買い物がどうなるか、想像してほしい。

アサヒビールのロゴ判決を引用する間でもなく、フォントや簡単な記号についてのデザインは類似しやすい。

音楽もまた然り。人間が共感しやすいコード進行はある程度決まってる。

ある程度似たものがあふれていても、困らない程度であれば世界の彩りのために類似性を許容して何も問題はないはず。

結局著作権侵害の主張は、本当に誰かが具体的な損失を受けている場合にその被害者から行われればよい。

間違って類似商品を買ってしまうような被害があれば商標問題や不正競争防止法の世界で整理していけばよい。

実害ではなく、誰かが安易に(安易そうに)収益を得ることがただ皆憎いだけにみえる。そんな気持ちを代弁するために著作権コンプライアンスだと法律を持ち出すのはやめてほしい。

法は楯であって剣ではない、まして無関係の第三者を中傷する竹のこぎりではないのだから。。

世界が滅ぶとも正義は行わざるべからず、というほどの正義があるかどうかは知らないが、ロゴの類似性は少なくともそれにはあたらないだろう。

正義は世界を豊かにするために基本的に用いられるべきである。ロゴ議論は、明らかに健全な経済活動にとって有害な体をなしている。

酒呑童子と原発


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京都は大江に行ってきた。大江山といえば酒呑童子。お話にはいくつかバージョンがあるようだが、一条天皇の治世、京の町から女たちが消えていくので安倍晴明が見立てたところ、大江山酒呑童子の仕業ということになり、源頼光と四天王という豪華メンバーで討伐にいく。酒呑童子は、酒宴で彼らをもてなすけれど、お土産の毒入り酒を飲んで動けなくなったところを首をはねられる。鬼神に横道なし、とぼやきながら。

小松和彦「異界と日本人」によると、鬼の首を平等院の宝蔵におさめることは、朝廷の権威付けの格好の材料であり、それをサポートする陰陽師の政治的地位が固まることにもなる。酒呑童子は、地方の豪族か、異形の異人か、よくは分からないが、そういった何者かであったのだろう。

大江山と京都は結構遠かった。特急列車で二時間。車で最短ルートを通っても一時間半、間に自転車で越える気には到底ならない峠も二ヶ所ほど。山賊もいるだろうし、さくっと人さらいして、その夜のうちに大酒をあおるという距離ではない。陰陽道で犯人特定というのも無理がある。

お話なので、助けてくださいと泣き崩れる美女たちやら、わしが人さらいだと乙女の生き血をすする鬼が出てくるわけなのだけれど、これは人心を惹き付けるための脚色だろう。けれど、大酒飲み、好色、人肉喰らい、鬼という連想はスムーズで、大江山のピラミッド的なビジュアルや、そこに至る道筋の寂しさなどをあわせて考えても、心にすっと入ってくる。あわせて実在のヒーロー達の活躍が絡むわけで、流行るのもよくわかる。

この話を読んで思い出したのは、原発だ。放射性物質は存在するが、それがどの程度人体に影響を与えるか、実際にどんな濃度でどこに存在しているか、把握できない。しかし、有名人が癌になれば、復興支援のせいではないかと、人々が囁くさまは、悪霊に怯える平安時代そのものだ。

安保もそう。法案採決すると戦争という病が沸いてくるかのような恐怖がある。実際は法案があろうがなかろうが、日々の外交の流れの中で戦争のリスクは絶えず高まったり、低下したり、変化しつづけているのだが、そういう感覚を身に付けている人間は少ない。

問題は、恐怖心というものが、とりわけ思考力を鈍らせるということだ。
絵巻の鬼の姿は、人々の頭から酒呑童子は冤罪なのではないかという疑念を遠ざける。疫病が流行れば自然晴明に頼りたいと考えただろう。

原発反対も安保法案反対も、明瞭な比較検討に裏打ちされた主張より、とにかく悪しきもの、穢らわしきものを封じたいといった風情が強い。太鼓の音頭にあわせて声をあげる様は、奇しくも護摩焚きのようだ。

民衆とは太古からそういったもので、それは良くも悪くもないことかもしれない。心配なのは、性質が悪い現代の陰陽師が登場することだけだ。

LGBTと小児性愛と社会防衛

寝屋川の事件があって、ペドフィリアについてネットサーフィンしていたら、思春期の入口で自己の小児性愛を自覚して苦悩し、互助組織を作った若者の話がでできた。その記事の中でNHKが行ったとかいう調査が引用されており、小児性愛への興味を消極的とはいえ感じたことがあるのはざっと成人男性の5%程度であるような記述もあった。

女性を性的な対象とする人が全て強姦魔ではないのと同じように、小児性愛者(小児にしか興味を持てない人と成人女性の代替として手を出す人がいるが、とりあえず前者を想定する)も大半は小児への加虐を望んではいないらしい。しかし、完全な禁忌であるから、欲望を実現した結果、どうにもならなくなって殺してしまうということもあるだろうし、表面化しないところでは、おそらく家庭内で発散されているものもあるだろう。子供の頃、近所にそういう気のある少年がいて、裸を見たい気持ちは小鳥の羽根やガラス飾りや花を愛でるのと全く同じだと言っていたのをよく覚えている。

とにかく、一定の割合でそういった性的な嗜好を持ち、かつ普通の社会生活を送りながら、苦悩している人々がいるであろうことは事実だろうし、特に日本ではついこの間まで少なくとも少年性愛については比較的おおらかに謳歌されていたのは、鈴木春信の春画をあげる間でもない。

だからといって、ダイバーシティですといって、即小児性愛者もLGBTの列に加えるわけにはいかない。少年側の適切な同意は期待できないし、性的トラウマで解離性人格障害に苦しむ人達が多くいるわけで、社会防衛の観点から適切に対応する必要があるのは当然のこと。

けれど、児童ポルノ規制の徹底や小児性愛者の社会からの徹底排除で本当に被害者を減らせるのだろうか。。

コサインの要らない女の子はいる。そういう男の子もいる。

議員の話題が出ているけれど、折角の問題提起なのに、女性差別問題に帰着して、発言撤回とは残念だ。ひとこと、女の子は失言だったけれど、女性でも男性でも、コサインを勉強する必要がない人はいると思う、と言い切って欲しかった。

読み書きそろばんに加えて、どこまでの教育をどこまでの範囲に義務教育として国は与えていくかを考えるには、①一人一人が社会の中で大人として生き抜いていける力を与えたといえるに十分なボトムが用意されているか、②国家繁栄のために必要な人材育成の土壌があるか、両方の要素が必要。

コサイン(またはそれに匹敵するあまり現実的に十分に生徒に消化されていない項目)を学ばずに、溶接やプログラミングや農業やデザインや介護や児童心理の勉強をもっと早くはじめられる環境が用意されたとして、誰が不幸になるだろう。

勉強したい人間には学力に応じて低い学費で学べる機会が開かれていればよい。

格差格差というけれど、もう高学歴だから生きていけるほど甘い世の中ではないのだもの、その先も常に機会の平等さえ確保されていれば、そこそこうまく回っていくような気がするのだ。

大学出とそうでない人々の間に越えがたい教養の差があった時代は確かにあったし、そういった中では大学に行けるということの素晴らしさははかり知れないものだったと思う。

けれど、これだけテレビやネットで情報アクセスの平等が実現されていて、社会人になっても学びの機会は沢山あるのに、18から22の若者たちの大半のパワーを彼らにとってさして魅力的でもないカリキュラムの消化のために使わせる意味が未だに残っているとはちょっと思えないのだ。

年代呼称と性意識

最近同世代の男性について非常に羨ましく思うのは、彼らが壮年期の入口にあるということで、社会的な充実に加え、人間的あるいは性的な魅力についてもきっと素敵になっていくのだろうなと、Facebookのタイムラインの写真のちょっとした1枚を眺めることが増えてきた。

厚労省によると31から44が壮年で、その先が中年、前期高齢と続いていくようで、その呼称は性差を問わない。

けれども辞書を離れたとりあえず乱暴な感覚としては40代から50代にかけての男性が壮年で、枯れてくると初老になるという気がしていて、世の中的にも大きな違和感はないのではと思う。特に壮年は壮の字義と、牡と字面が似ているせいか?、女性に使われることは少ない。しかし、何だか魅力的な言葉だ。

対して中年というのは男女両方使われるけれど、ちょっとネガティブに性的魅力の衰退のイメージを含んでいる。おじさん、おばさん然り。

その他、熟年、熟女、妙齢、淑女などの用語をぼんやり探しても、中年期以降の人間的魅力の増大をセクシーに表すような表現は、特に女性について見つけることが難しく感じる。若い女性を記号的に表現する言葉は沢山あるのに。

妙齢はちょっとシニカルというか、本来の意味をちょっと裏返した揶揄的な表現になっているし(美魔女等)、熟女は性産業で消費されすぎてしまったし(年齢ではないけど女社長とか、女医とかも)、とにかく自分がなってみたい理想的な女性像を語ろうとしたときに端的に使える言葉が少ない気がしている。

陳腐な例だけど、フランス語のマダムという言葉に含まれる尊厳は羨ましい。日本語だと母や母性という言葉には、似たような尊厳や人間的魅力の礼讚、あるいは成熟した男性からの思慕の情を感じるけれど、マダムが独身でも一定以上の女性への呼び掛けに使われるのに対して、「母」概念に基づいた女性への尊敬は社会的な場所を持たない(気がする)。働く母親に時折向けられる社会的な冷たさはその表れだと思う。

「女子」の多用や、働いている女性が始終口にする「ロールモデルの不在」には、こんなことも影響しているのではないかなと思っている。勿論、人間的魅力に男女の色分けをする必要はなく、朗らかで聡明で穏やかで力強い志ある人物になろうと思えばよく、女性が男性に憧れたり、逆でも全く構わないけれど、こういう風に年を重ねたいというセルフイメージには、それが異性にとっても魅力的に移るというところがやっぱり欲しいのである。

そもそもの生殖可能期間の違いもあるし、日本の気候風土やら性風俗の流れやらで、社会的なあるべき論が、性文化を変えるに至るのはそこまで簡単な話ではないと思うけど、ここ100年くらいの性風俗に起きている変化(小児性愛への徹底的嫌悪等)や現代人の肉体や見た目の若さ、医療進歩による出産年齢の上昇なども考えると、遠からず、中年期の女性の魅力がより深みをもって語られるようになって欲しいと思う。